2022.06
一般財団法人 発達支援研究所所長
山本登志哉(教育学博士)
【第一回】
3か月ほど前になりますが,全国精神障害者地域生活支援協議会主催の研修で,逆SSTについてお話をさせていただいたことがあります。
その時,研修の最後に厚労省の障害福祉課就労支援専門官の大工さんが「障害者就労支援策の動向について」という報告をしてくださったのを聞くことができました。
障がい者雇用については,法定雇用率が1976年に1.5%に設定されて以降,1988年には1.6%,1998年に1.8%と増加し,さらに2013年には2.0%,2018年に2.2%とより速いペースで上昇し,2021年から現在は2.3%に設定されています。
法定雇用率はいわば「企業に課せられた目標値」のようなものですが,2013年以降上昇ペースが上がっているのは,目標達成が速やかに行われているからという状況があるようで,現在の実雇用率はすでに2.2%になって,そのこともあって次の2.3%の目標が早期に設定されたのでしょう。
また,その内訳をみると,最初1987年までは全て身体障がい者としての採用になっています。そこから次に知的障がい者としての採用が始まり,さらに2005年には精神障がい者の枠が加わり,三者とも伸びていますが,その中で特に今は精神障がい者の雇用がかなり伸びてきています。
内訳は2021年で身体障がい者35.9万人,知的障がい者14.1万人,精神障がい者9.8万人ですが,そういう障がい者雇用の中で就労系障がい福祉サービスから一般企業へ就職した人数は,少し前のデータですが2019年で2.2万人。これは2003年の17倍に急増しているとのこと。就労支援が実際に就労支援に大きな役割を果たしてきていることが分かります。
障がい者の雇用という問題は,単に福祉的なサポートの問題にはとどまりません。世の中にはいろんなニーズを持った,さまざまな特性をもち,それぞれの能力を持った人たちがいる。そういういろんな人たちがそれぞれに自分の持ち味を生かしながらどうやって豊かな社会を作っていけるかという,これからの社会の在り方を探っていく大事な問題の一部でもあります。
そういう大事な意味もふまえ,このように量的には着実に進展がみられるようになっている障がい者雇用と,それを支える就労系障がい福祉サービスのこれからの課題は何でしょうか。
第二回に続きます
2022.06
一般財団法人 発達支援研究所所長
山本登志哉(教育学博士)
【第二回】
まず現在の状況からいうと,就労移行支援の事業所数は少し意外なことに横ばいからやや減少傾向にあるとのことでした。利用者数が減少しているわけではなく,むしろ少しずつ増えてはいるのですが。それに対して就労継続支援A型の事業所は少し増加,B型が毎年6%程度増加し,さらに就労定着支援の事業所に至っては2018年からの3年間で50%以上増えているのと好対照になっています。
この増加傾向の差にもある程度反映されているのかなと思うのですが,おそらく支援の焦点はむしろ「定着」のほうにウェイトがかかりつつあるようにも見えます。実際,就労移行支援で頑張って就職に結びついたとしても,その障がい者が就職先でもその特性に合わせた適切な配慮(合理的配慮)を受け,そのような環境を生み出して就職先が求める仕事もこなしていくにはいろいろな現実的困難が生まれるのは当然です。ある意味,就労と雇用のどちらの人も「慣れていない」のですし。
ですから,せっかく就職できてもやめざるを得なくなるケースが少なくないわけですね。その問題に対して厚労省による「障害者雇用・福祉施策の連携強化に関する検討会報告書」では今後の支援の在り方について,次のようなイメージで進めていくことを提言しています。
どういうことかというと,これまでは福祉的支援としての就労継続支援事業(A型・B型)から一般企業における就労に移行する場合,ある意味で機械的に福祉から雇用へと切り替わっていたわけです。そのため慣れない移行期にいろいろな問題が起こって継続しきれなくなり,また就労継続支援事業に戻るということにもなりやすかった。
それに対して,移行期も移行期を過ぎて完全就労になった後も,状況次第で就労継続支援と企業における就労の両方を柔軟に併用できる仕組みを作ろうというわけです。
社会が世界中で「多様性」を重視するようになっている現在,働き方についても雇用側ばかりではなく,就労側のさまざまなニーズも考慮した多様な形が必要になっています。そうやってその人の特性に合わせた働き方が工夫できることで,その人が本来持っている力を最大限に発揮できるようになり,それができれば両方にとってメリットになるのは明かでしょう。
ただ,今までの働き方からそういう柔軟で多様な働き方に移行するには,当然細かいところも含めていろんな日常的な工夫が必要になってきます。そういう小さな課題もひとつひとつ解決しながら道を切り開いていく必要があるわけですが,その時に,例えばこの上の図にあるような福祉と雇用の連携を作り上げていくという制度的な工夫もとても大事になります。
福祉の人は障がい者の特性に日々接し,さまざまな工夫を重ね,そういうノウハウを蓄積されていますが,企業における働き方についてさらにどんな工夫が必要になるか,企業側の思いはすぐには見えにくく,一部見えても福祉的な視点とのギャップに悩むこともあるでしょう。
逆に企業の雇用側は障がい者理解が十分でないために,合理的配慮ができにくくなることもあります。それにどのように障がい者を受け入れ,その人の活躍の場を作れるかどうかについては,それまでにない新しい発想も必要になるため,なかなかイメージが持ちにくかったりもするはずです。その両者の知恵を交流することで新しい働き方をお互いに模索していくことが大事になります。
上の提言はとりあえず就労継続支援事業に関するものですが,就労移行支援についてもこれから企業との連携で就労しやすく継続しやすい働き方を調整して支援する役割がますます重要になっていくだろうと思えます。
発達障がい児支援でも支援の事業所だけではなく,地域の学校や行政,医療との連携がとても大事になることは,私たちが日ごろ行っている事例検討の中でも繰り返し見えてきています。ただ,かならずしもそれがスムーズにいくとは限らず,連携を拒まれてしまうようなケースも残念ながらないとは言えません。まず「連携があたりまえ」という感覚をお互いに共有するまでの取り組みも重要な課題になります。
さまざまな立場の人たちを,お互いの違いを超えてどうやってつないで障がいの有無に関わらず一緒に生きていける共生の仕組みを作っていくか,それは障がい者との共生を超えて,これからの私たちが生きていく社会をどんなふうに柔軟で豊かな活気あるものにしていけるかに関わる,大事な課題なのだと思います。
『共生』とはお互い自分らしく生きること
2022.05.02
一般財団法人 発達支援研究所所長
山本登志哉(教育学博士)
【第一回】
いまは「多様性を認め合い、共生しあう社会を作る」というスローガンは世界中でかなり普通に認められるようになりました。ですから「障がい者」と「健常者」の関係も、そういう共生の関係を作っていくべきだということになります。
まあでも言うは易し、行うは難し、というのは常に言えることでしょう。「男と女の間には、深くて暗い川が………」という歌もありましたが、身近な夫婦関係だって、お互いの多様性を認め合うのはほんとにむつかしい(私だけ?(笑))。
その「難しい」の部分を現実にどうやって解決したらいいのか、ということの具体的な方法を見つけ出していかない限り、それはいつまでもきれいごとのお題目になってしまうかもしれません。
なぜ「多様性を認め合う」のがそんなにむつかしいことなのか、どうしたらそこを改善する道が開かれるのか、ということについてはまたおいおい考えてみたいと思うのですが、とりあえずここではお題目の方を少し考えてみようと思います。
自閉症の療育に関する研究をやってこられた村上靖彦さんが『自閉症の現象学』という本を出されているんですが(2008年勁草書房刊)、最後に現在の療育の方法を大きく三つに分けられているのが面白いです。
それは①TEACCH(ティーチ)が切り開いてきた「構造化」の方向と、②ABA(応用行動分析)に代表される「訓練」の方向、そしてそれらを乗り越えるものとして村上さんたちが考える③「脱構造化」の方向です。
この三つがどういう視点から分類されているかというと、ちょっと乱暴に言ってしまえば「世の中に合わせる」ことに主眼が置かれているか、「障がい者に合わせる」ことにか、あるいはそのどちらでもない新しい道か、ということです。
TEACCHの支援方法は、徹底して自閉症当事者の持つ特性に合わせて、その人がその特性をベースに工夫して生きていかれるように、「環境を整える」ことが重視されています。「構造化」というのはそういう「環境をわかり易いものに組み立てかえる」ことですね。
発達支援研究所の客員研究員をしてくださっている、臨床家の下川政洋さんが、研究所のサイト「はつけんラボ」で【アメリカの発達障がい事情】という連載を書いてくださっていますが、これはTEACCHの本場ノースカロライナ州で下川さん自身が受けられた研修や、自閉症児・者のためのサマーキャンプにボランティアで参加されたときの経験を紹介されていますので、よろしければご覧ください。
たとえば自閉症の方でよく「こだわり」があるということが問題視されることがあります。たとえば時計にこだわりを持っていて、時計を手放すことができないとか、周りから見ると「奇異」に感じられてしまう行動とかがあります。
でもTEACCHの場合はそういう「こだわり」とされる行動は否定されないんですね。その子・人には意味があることだということで、それを認めたうえで、その子・人にあった支援の仕方、環境の調整を考える。
でもそういうやり方に対しては常に批判が起こります。いくらその子にあった環境を周囲が整えてあげたとしても、それはその場所だけで成り立つことで、世の中厳しいんだから、障がい者に合わせてなんかくれない。その中で社会に合わせて生き抜く力をつけてあげなければ、結局その人が将来苦しむだけなんだ。という考え方です。
ABAはそういう考え方で療育を考える人にはかなり有効な手段になるでしょう。なぜならそれは(新)行動主義という心理学の中の一つの考え方を利用して、「困った行動を減らし、望ましい行動を増やす」ためのテクニックとして広く使われ、実際に一定の範囲で効果もあるものだからです。
第二回に続きます
二
【第二回】
原理はわりとシンプルで、人間に限らずある程度以上進化している動物は、自分に都合の良い結果(賞)を得られればその行動を繰り返し、都合の悪い結果(罰)があればそれをしなくなる、という形での「学習」のシステムを作り上げているというのが基本の発想にあります。だから言葉が離せない動物を訓練するのにも有効に使えますし,人間も動物の一種として,同じ心理的仕組みは確実に持っているわけです。
その発想を使い、「どういう状況でその困った行動が生じるのか」ということを分析し、それが繰り返されるのであれば、きっとそのことで何か得をしているんだろう(賞を得ている)と考え、その賞を与えないようにしたり、あるは罰を与えるということを工夫することで困った行動を減らし、その反対のやりかたで望ましい行動を増やそうとする、というわけです。
子育てだっていいことをした子どもは褒めてあげ(賞)、悪いことをしたら叱る(罰)ということは誰でもやってます。それである程度効果があるのは間違いないですし、2000年以上前から「法家」が主張してきた「信賞必罰」もまさにそれです。別に新行動主義を持ち出さなくても,基本的な原理自体は昔から知られていたことになります。
ただ、そこで問題が起こるとすれば、ひとつは人間の場合「納得」みたいなことが結構大事で、たとえ罰せられてもやる、褒められてもやらない、ということもよくあることです。「わかっちゃいるけどやめられない」というのはだれでも経験がありますよね。それが人間としては普通のことですし、特に人が自分の意志で生きていきたいと思う時にはとても重要なポイントになります。だからたとえ「損」をしても自分らしく振舞おうとし、あるいはそれを否定する相手を拒否するわけです。
TEACCHもそういう「その人の感じ方や考え方をベースに支援を考える」という視点がベースにあるのだと思いますし、今は「合理的配慮」ということが言われるようになって(障害者権利条約)、障がい者の特性に合わせて合理性をもって必要な環境を整えるのは社会の義務だ、という考えが重視されるようになってきました。
そんなふうに、その人に合わせ、その人自身の納得感を重視し、「障がい者に合わせる」か、「世の中に合わせる」か、という二つの方向性は私たちが生きていくうえで常に問題になることですし、そのどちらか一つでうまくいくわけでもなく、支援の仕方もその両方の間をいろいろ揺れ動いて進むのが実際のことでしょう。村上さんが「脱構造化」ということを考えたのも、その揺れ動きの中でのことだろうと想像します。
まあ人間というのはほんとに複雑な生き物ですから、ひとつのやりかたですべてがうまくいくということはありません。あるときあるやりかたでうまくいっても、しばらくして状況が変わってくるともうそれではうまくいかなくなるのもよくあることです。そのどちらを重視するのか、ということについてはその人の人生観や価値観も大きく作用します。
実際、「唯一の正解」はない、というのは療育支援に深く携わったことのある方の多くから聞かれる、経験に裏打ちされた言葉です。
これも素朴に考えれば当たり前のことでしょう。支援は何かを目指して行われるわけですが、切実な問題は今その人が抱えている困難をどうやったら軽減できるか、ということでしょうし、究極的にはその人がその人なりに幸せに生きていかれるような条件を作っていくこと、それにつきます。
就労支援でも,当事者の方が抱えている困難が大きければ大きいほど,この人生観や価値観にもかかわる「納得」の問題が大きくなります。
でも,そこで現場のスタッフの皆さんも常に突き当たる問題は,そこまで「深く」問題を考えて支援しようとしても,それにはたくさんの時間と労力が必要だから,目の前の就労という課題には「間に合わない」ことが多い,と感じてしまわれることでしょう。世の中そんなことを待ってくれるほど甘くはないんだ,という「厳しい現実」を感じるからです。
まあ,それはその通りとも言えます。現実問題としては,支援される側の方にじっくり付き合って,その人が前向きになれることを追求する姿勢と,周囲から要求されることに対応できるように努力を重ねることと,その両方の間を行ったり来たりしながらその人と周囲とが折り合いのつくところを探していくしかない,というある意味当たり前の話に落ち着くのでしょう。
ただ,その時大事かなと思うことは,そういう揺れ動きの中で,ただ同じところを行ったり来たりしているわけではなく,ゆっくりではありますが,確実に社会も変わり,会社組織も変わってきていることです。気がついて見れば,ああこんなに変化したんだなあと思えます。
少し前にボストンマサチューセッツ大学とハワイ大学CDSのコラボで「障害のある若者の雇用に関する 日米企業リーダー育成研修第4回」として行われた「職場におけるインクルージョン:障害者、企業、そして地域へもたらすメリットとは?」というタイトルのシンポがあって,案内をもらってzoomで参加してみたのですが,アメリカや日本の企業でもいろんな工夫を重ねてきていますね。
面白い工夫もありましたし,以前見学させていただいた日本の障がい者雇用の現場でも,素晴らしい実践を教えていただきましたので,またご紹介できればと思います。
先日,東京太田市場の中にある,就労継続支援B型の作業現場に見学に行かせていただきました。みんなの大学校の引地達也さんたちが運営されている事業所です。私たちもにらの袋づめ作業を体験させていただきました。もしかすると私が詰めたにらが,みなさんのおなかの中に入った?(笑)
『共生』とはお互い自分らしく生きること(完)
相互理解に基づく支援の模索:逆SST
2021.11.05
一般財団法人 発達支援研究所所長
山本登志哉(教育学博士)
先日、発達支援研究所で「第三回逆SST」を行いました。SST(ソーシャルスキルトレーニング)が、障がい者がどうやって周囲とうまくやって行くかを考えていくという視点で行われるのに対して、逆SSTは定型発達者と呼ばれる側が障がい者を理解する力を育てようというものです。その内容も、発達障がい当事者の人と一緒に相談しながら作っていきます。
私自身、特に自閉系の方たちとの付き合いをしていて、「この人はどうしてこんなことを言うんだろう?」とか「どうしてこんな振る舞い方をするんだろう?」と考え込むことがよくあります。なぜなら定型的な考え方からそれがあまりに外れて見えるからです。
実際「そんな言い方したら相手が傷つくだろう」とか、「そんな否定的な見方はその人の思い込みにすぎない」とか、「そんなふうに言うことをころころ変えたらだれにも信頼されなくなるだろう」とか、定型的な感覚からいえば「やっちゃいけない」と感じられるような振る舞いに多く出会います。
だから、そういう人への「支援」は、まずは「そんな振る舞いをしてはいけないよ」ということを教え、「正しい振る舞い方」を理解させる方向で模索されることになります。私自身以前はそういう見方を当たり前と思っていました。
でも、障がい当事者との付き合いが深まるほど、そういう風にその人の振る舞いを否定的に見ている私の見方自体が実はある種の偏見なんじゃないか、と思わされていくのです。
たとえば、わりと聞く話にこんな例があります。
家族が病気で寝ている場面で、寝ている人が自閉系(または自閉的傾向の強い人)で、看病しているのが定型の家族だとします。看病する側は当然食事や薬の世話などいろいろとするわけですが、それだけではなく、相手の顔を見て「どう?つらくない?」「大丈夫?」などと声をかけることも多くあります。定型的な感覚では特に不思議でも何でもない、あたりまえの光景かと思います。
ところがその言葉かけに自閉的な人はその言葉かけに困惑して「いや、つらいから寝てるんだけど」「大丈夫じゃないから寝てる」などといぶかしげに答えることがあるのです。さらには「私になんて答えてほしいの?」と聞き返すこともあります。
そういわれて、看病している定型の側はこの言葉を聞いてかなりきついショックを受けることになるでしょう。というのも、その言葉で相手を心配する自分の気持ちが拒絶されたように感じるからです。人が心配しているのに、なんでそんな言い方をするの?ということですね。特に最後の言葉は自分を馬鹿にされたようにすら感じかねないでしょう。
でも、そんなふうに定型の側から受け止められることで、多くの自閉系の人がさらに悩んでしまうことになります。どうしてそんなふうに受け止められるのかが理解しにくいからです。
ではなぜ自閉的な人がそのように対応する場合が見られるのでしょうか。わりと普通に広まっているのは「やっぱり自閉の人は想像力の障がいがあって、相手の気持ちがわからないからね。どうやってコミュニケーションをしたらいいかも理解できない、コミュ障そのものだよ」みたいな形で「障がい特性」として理解する仕方でしょう。でもそこに大きな落とし穴があります。
私も最初本当にわかりませんでしたが、当事者に尋ねることで長い時間をかけて少しずつ分かってきました。そして「こういうことなの?」と当事者に尋ねると「その通り」と言ってもらえることが多いです。
自閉系の人はしばしばこう考えるようです。自分が寝ているのは病気でつらいからで、早く治すために寝ている。
それは一目見ればわかるのに、なぜあえて「つらくない?」と聞くのか、その意図がわからないというのです。
自閉系の人は定型的な物の考え方がぴんと来ないということが多くあります。そのことで周囲から責められたりすることも多く、子どものころからずっと傷つき続けています。それでこんな場合にもその意図がわからなくて、なんて答えていいのかわからず、困惑し、ただでさえ体がしんどいところ、その困惑で却って精神的にも負担が増したりするわけです。
ですから上の言葉はそういうしんどさを抱えながら、「なぜそんなことを聞かれるのかわからない」という正直な気持ちを、困惑しながら語っているのだということになります。
また、定型が自閉的な人の視点からはわかりにくい「言外の意味」を込めてコミュニケートしてくることは繰り返し経験しています。それで自分なりに「裏の意味」を想像して答えることになるのですが、ところがいろいろなものの感じ方や考え方の道筋に違いがあるため、その答え方が定型発達者が期待するものからまたずれてしまって、相手を傷つけたり、怒られたりという経験も積み重なっていきます。
こうなるともう下手なことをうかつには言えないという気持ちにもなるわけですね。別に相手を不快な気持ちにさせたり、傷つけたりしたくて言っているわけではないのです。でも、じゃあどう答えればいいのかがわからない。それにもかかわらず答えを要求されるため、困って「答えを教えて」と頼んでいるのが最後の言葉になります。どうふるまっていいのか困って「あなたを傷つけずに答えるにはどうふるまったらいいの?」と尋ねているわけです。
この話を研修の場などで行うと、終わった後に「私は当事者なんですけど、あの話、ほんとにそのまんま当てはまります」と言われることが多いので、多分かなり良く起こることなのでしょう。逆に定型の人はその話に驚くことが多いです。
立場が入れ替わって定型の人が寝込んでいるときには逆のことが起こります。自閉系の人は必要な世話はもちろんするのですが、それ以外は定型的な声掛けもすることなく、ただ静かにそのままにしておく場合がよくあります。
ところが定型からすると(もちろん人にもよりますが)、それはなんとなく、病院で看護師さんに仕事として事務的にケアされているような印象になり、寂しさを感じたりします。もっと心配して声をかけてほしいと感じたりするわけですね。でも自閉系の人からすれば、それは無駄な言葉をかけず、静かな環境で早く回復するように気遣ってあげていることになります。
上に「自閉系の人は定型的な物の考え方がぴんと来ないということが多くあります。」と書きましたが、実は定型の側も自閉系の人の考え方がぴんと来ないわけです。その意味ではお互い様です。
ですから、問題は自閉的な人が「相手に配慮する気持ちがない」のではなくて、気遣いのポイント、性質が異なっていることなのです。だからお互いに「自分が気遣ってほしいやりかた」を相手が無視していることになり、困ったり傷ついたりしているということになります。
この手の話がほんとにたくさんあって、意図せずにお互いに傷つけあい、そして傷つき、それが積み重なると関係がどんどん悪化してきて、ほんとにお互いに攻撃的になったりするような展開にもつながります。
その仕組みがわかれば、少しは改善の手がかりが得られるのですが、そもそもそういう「気遣いの違い」みたいなことが存在していることに、お互い本当に気づきにくいのですね。お互いに自分の感じ方が普通で当たり前で、みんな同じように感じていると思い込んでいるからです。
2021.10.06
一般財団法人 発達支援研究所所長
山本登志哉(教育学博士)
先日、発達支援研究所の公開講座「当事者の就労経験に学ぶ」の動画撮影で、みんなの大学校の学長をされている引地達也さんと対談をしたのですが、そこであらためてしみじみと話し合ったことがあります。それは「支援って足場づくりの作業が一番基本だよね」ということでした。
これは別に障がい者だから大事だということではなくて、もともとすべての人にとって大事なことです。何かをやろうとしたとき、「足場」がしっかりしていなければ自分の足で立つこともできず(もちろん足というのは比喩です)、歩き出すことも、駆け出すこともできません。
障がい者と健常(定型発達)者の違いは、この「足場」づくりの困難さのレベルにある、と言えます。世の中は基本的に健常(定型発達)者に合わせて作られているので、それになじむ人は「足場」が作りやすい環境になり、そうでないと作りにくくなる。
私は心理学が専門なので、「心理的な足場」についてよく考えるんですが、「理解」の面でも「感情」の面でも、自分の中で足元が揺らいでいるときはなかなか前には進めないですよね。「○○をしたい」と思っても、どうやったらそれが実現できるかについての知識がなければ動きようがなく、知識があっても自信がなければ一歩を踏み出せず、それどころか「どうせ自分なんて……」と思えば一歩を踏み出す気持ちも生まれません。
もっと言えば、落ち込みがひどくなっていけばそもそも「○○をしたい」という目標の「○○」さえ頭に浮かばなくなってきます。ただ息をしているだけでも精いっぱいという状態になることもあります。
全国の障がい児・者支援の施設で事例検討をしていてしみじみ感じるのは、「足場」ができていないことで、気持ちが不安定になったり、自分や他人に厳しく当たったり、引きこもってしまったりする例が本当に多いということです。
じゃあどうして足場ができにくいのでしょうか。
これ、実はとてもシンプルなことなんだと思います。それは「自分を認めてくれる」「自分を理解してくれる」「自分を肯定してくれる」人や場があるかどうか。あればそこが足場になり、なければ足場が作れない。
冒頭にご紹介した引地さんはもともと通信社の記者として世界中を飛び回っていた方ですが、その後、故郷であった東北大震災に直面し、ボランティアを続けられます。地震というのは文字通り地面という足場が激しく揺れ動き、家という生活の足場が崩壊し、家族という心の足場が奪われてしまう体験になります。
もちろん生活を支えるための支援物資も必要です。けがをした人には医療も大事。でも引地さんがもっと大事にされたことがあります。それはそうやってたくさんの足場を失って茫然とした人たちの話を、ひたすら聞き続けることだったそうです。
それまでの自分を支えていたさまざまな足場が失われ、呆然とする被災者の方の話をひたすら聞く。励ますわけでも後ろから後押しをするわけでもなく、ただ話を聞くだけなのに、そのことで被災者の方が支えられ、前を向けるようになってくることを引地さんは実感されました。ただ傾聴することが被災者の方にとって足場になったのでしょう。
そうやってボランティアを1年以上も続けられた後、引地さんは障がい者の就労支援の活動に取り組み始められます。公開講座「当事者の就労経験に学ぶ」でインタビューに応じてくださった谷口さんや、前回の講座でご自身の体験や思いを語ってくださった水越さん、中嶋さんはみんなそんな引地さんと出会い、じっくりとお互いのつながりを作り上げてこられた方たちです。
みなさん、それまでとても厳しい環境の中で長い長い引きこもりなど経て、今回そうやってインタビューでご自分の思いを公開されるまでの前向きな気持ちにまでなられたのは、やはり引地さんとの出会いが決定的だったのだと私には感じられました。
震災の時と同じで、そこでも引地さんがされたことは、なにか特別のテクニックを使った「支援」ではありません。ただただその方たちの思いをしっかりと聞いて、決してその思いを否定することなく、その人の持つ力を一緒に見つめていった、ということだったと思えます。
こんなエピソードを引地さんは語られます。引きこもって寝床から起き上がることもできない状態の方の部屋を訪ね、同じように寝転がって、天井を見る。天井にシミがあって、引地さんは「ああ、彼もこのシミを見ているんだなあ」と思う。
語り合って前向きになるどころか、語り合うことすらできなくなった彼に対する、それが引地さんの大切な「支援」となっていきます。
どうしてそれで「支援」と言えるのか、と思われるでしょうか。やはり天井を一緒に見つめる「支援」を受けた谷口さんは、インタビューの中でこんなことを言われています。
「引地学長は自分のいいところを伸ばそうとしてくれる。自分の突拍子のないところも否定せずに一回受け止めてくれ、そのうえでそれをどう思うかを丁寧な言葉で返してくれる。他では否定されることも失敗にカウントされず、それは何かに使えるね、としてくれる。そのおかげで今の企画でもインスピレーションにつながっていて、無駄になるものはないのではないかと思う。」
今まで誰も受け止めてくれなかった自分の思いを、隣で、また向かい合って静かに受け止めてくれる。そこでは自分が肯定される。そういう繋がりが「足場」を作ったということになります。
支援にとって大事なことは、その人の思いを受け止め、そのことで肯定的な自己に気づいてその自分が足場になり、元気が出て前に向かって自分で歩き始められるようになるプロセスを、横に並んで一緒に探していくことなのだと、引地さんの支援の実践を拝見していてしみじみと思うことでした。
障がい者がつらい思いをするのは、障がいそれ自体のことであるより、むしろそういう障がいという特性を持つ自分のことを周囲の人が理解してくれないこと、否定の目で見られることでしょう。困難はそういう「他者の目」によって生み出されていきます。そしてやがて孤立し、人とのつながりを失ってひとり苦しむ状態にもなっていきます。
ということは、支援者にとって大事なことはそういう思いとまずはつながり、最初は細く薄いそのつながりを少しずつ育て、やがてはこれからのことを一緒に考えていくことでしょう。それは簡単なことではないかもしれませんが、支援を必要とする障がい者の多くはその「簡単ではないこと」にそれまでたったひとりずっと悩み続けてきた方たちです。その思いを共有しようとするだけで、きっとちいさな足場がそこから作られていくのだと思います。
「ズレてるからお互いに生きづらい」ということ 第一回 2021.08.14
一般財団法人 発達支援研究所所長 山本登志哉(教育学博士)
私の専門はメインが発達心理学で、社会の中で育っていく子どもの姿や、異なる文化を持った人同士の相互理解の方法や理論などについての研究を主にやってきました。
また発達心理学をしている関係で、長い間発達障がい児の療育現場とのかかわりもあり、障がい児の証言能力に関する分析評価を頼まれたことから、供述分析(大きく言うと法心理学)の領域にも足を突っ込んでいます。
私の一番の関心は、「お互いに理解しあえない人同士が、それでもどうやってお互いを否定せずに一緒に生きていけるのか」という問題です。
たとえば大人と子ども。私たちはみんな子ども時代を通っているから、子どものことなんてわかるはず、と思いきや、実はほんとは大人になったらすっかり子どもの心を失ってしまって、わかんなくなっているんですね。皆さんの中にも子育てで苦労された方もいらっしゃるでしょうし、逆に親に気持ちが伝わらなくて苦しんだ方もいらっしゃるでしょう。
異文化との接触もそうです。私自身文科省(当時は文部省)の派遣の若手在外研究員として、10か月間、中国で研究活動を行ったことがあり、大都市の北京から近郊の農村、少数民族の人たちが暮らす地域など、それまで日本では全く経験しなかった世界に入り込んで、そこで理解困難な文化にたくさん出会って身も心も爆発しそうでした(笑)。異文化間の理解はほんとうにむつかしいのです。
「ズレてるからお互いに生きづらい」ということ 第二回 2021.08.25
一般財団法人 発達支援研究所所長 山本登志哉(教育学博士)
発達障がいの、特に独特の視点や感性、理解の仕方を強く持たれている自閉系の方たちとの相互理解の実践研究も積み重ねてきていますが、まあお互いに常識がすれ違ってしまって、「なんでそうかんがえるの?」ということがわかんなくて、頭が爆発しそうになることばかりです(笑)。
供述分析をしていると、同じ供述を見ていても、裁判官と私たち心理学者で全く理解が対立することがよくあります。私たちから見て「こんなの嘘ついてるにきまってるじゃない」とか「無理やり言わされてるよね」と思える供述に、それと全く逆の評価をされたりして、びっくりします。これもまた「供述」を評価する基本的な視点に大きなずれがあって、お互いに理解しにくいんですね。
こんな風に、お互いの考えていることが理解できない、想像もできない、といったことは私たちの生活の中に普通にどこにでも転がっています。その中のひとつに「障がい者」と「健常者」の関係もあります。
自分の思いがどうしても相手に伝わらず、相手の言うことも意味が分からない。理解できないからうまく付き合えず、いろんな摩擦が起こり、関係が悪くなり、その内一方が排除されたり差別されたりということも起こります。そして「障がい者」はそういう弱い立場に陥りがちです。
こんな状態では当然「共生社会」なんて実現するはずもありません。
「ズレてるからお互いに生きづらい」ということ 第三回 2021.09.13
一般財団法人 発達支援研究所所長 山本登志哉(教育学博士)
支援というのは「力のある人がない人を援助してこの世の中に適応できるようにしてあげること」とイメージされることが多いと思います。でもここでは「おたがいさま」という少し違う視点から共生を考えようと思います。
つまり問題はお互いの特性、得意なことと苦手なこと、考え方や人間観・人生観にずれがあって、お互いにそこに折り合いが付きにくい状態があるからなんだと考えてみるわけです。「ズレてるからお互いに生きづらい」
ということで大事なのは、よくわからない同士、どうやったら少しでもお互いに理解し合えるようになるのか。理解しあえなくてもどうやったらお互いに相手を否定しないで折り合いをつけて生きていけるのか。その道を探ることでしょう。
それを私たちは「ディスコミュニケーション分析」という概念を使いながら考えてきました。
就労支援というのは、お互いに理解しあえないで困難を生んでいる障がい者と健常者の間を調整し、二つの世界に橋渡しをしてお
互いが生きやすく、お互いを活かしあえる道を探るお手伝いをしていくことの一つなのだろうと思います。
そんな視点から、「これからの就労支援」について、これまではつけんラボのブログで書いてきたことなども使いながら、個人的
な経験もいろいろ交え、あまり型にはまらずに自由にいろいろ考えていけたらと思います。