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【利用者ブログ】沼津夏祭り・狩野川花火大会と亡き祖母のこと【アクセスジョブ静岡】|日曜日の独り言
公開日:2025.08.17
更新日:2025.08.12


沼津夏祭り・狩野川花火大会
沼津夏祭りは毎年7月下旬、2日間に渡り沼津の市街地に流れる狩野川で開催される花火大会だ。その日のどちらかは親戚で集まって母の実家から花火を見るのが、私にとっては子供のころからの習わしだった。家を訪ねると、祖母は大体決まって部屋の奥のお誕生日席でうちわを扇いでいた。
その祖母が亡くなって3度目の夏、1年振りに訪ねたその家のその席は空席で、うちわも姿を消していた。祖母がもういないことは頭では分かっているけれど、なんとなく違和感が拭えない。
亡くなった祖母のこと
祖母はよくしゃべる快活な人だった。お店を切り盛りしながら3人姉妹を育て上げ、孫を7人持ち、そして6人ものひ孫の顔を見て89歳で亡くなった。離れて暮らしていた私が知る祖母のことは母から聞いたことばかりだ。
沼津夏祭りは戦後間もない1948年から始まったらしい。祖母は戦前生まれだから、結婚したときにはすでに始まっていたはずだ。隣の市からこの地に嫁入りしてきた祖母は、一体何回花火を見たんだろうか?初めてこの花火大会を見たときはどう思ったのだろう?祖母が生きているときには思いつかなかったことを、私は今頃聞きたいと思う。
祖母と私
私はあまり祖母のことを知らない。それは離れて暮らしていたので会う機会が少なかったからだと思う。比較的遠方の父の実家へ帰省するのに気を取られて、小さい頃は年に一度しか会わないこともあった。
たまにしか顔を合わせる機会はなかったけれど、会いに行けばお年玉やお小遣いをくれたし、美味しいものでもてなしてくれた。愛されていなかったわけではないと思う。祖母は私を孫として扱ってくれた。けれど、多分、お互いに特別な繋がりというものを感じたことはなかったと思う。でも、孫(私にとっていとこ)は7人もいたし、私は外孫だったし、そのことを強く意識することはなく、「そんなものだろう」と思っていた。
だから祖母が亡くなったときもひどく悲しくはなかった。お葬式で、蝋人形みたいになってしまった姿を見て、「もういないんだな」と思った。心のどこかに小さい穴が開いたような気持ちになった。でも、それがそんなに大きいものではないことを私は理解していた。誰かに言うともなく。
祖母がいなくなったとき自分はそんな風だったものだから、兄の祖母に対する感情もそんなものかと思っていたのだが、最近話の中でふと「3年経った今でも悲しい」と言ったので少しびっくりした。
4歳上な分祖母と接した時間が長かったからなのか、それとも彼の感受性の豊かさゆえか、私がドライなのか……。
遺品整理
そんな私なのに、当時、祖母の遺品整理を手伝うことになったのは、いとこの中でこの私だけだった。理由は単純で、私以外の人はみんな結婚して家庭を持っていたり、遠くで働いていたりしてそんな時間を取れなかったからだ。ニートもこんな時には役に立つ。
……と言っても、私がしたことは細々とした物の片づけや掃除くらいで、大半は祖母と同居していた伯母様がしてくださった。だから私が出来たのは本当に限られたことだった。
今思えば、いとこの中で一番年下で祖母との関わりも薄い私に、祖母のことに触れる最後のチャンスを作ってもらったのかもしれないと思う。この遺品整理で祖母がどんな人だったのか、少しだけ知れたような気がする。
戸棚を拭いているとき、奥から一枚の紙片が出てきた。それは自分の亡き夫に、都会の医療関係の職場で働くある内孫の安全を祈る手紙だった。まだコロナ禍の時期だった。未知のウイルスがはびこる時代に、心配して、可愛い孫の無事を祈るのも当たり前だと思う。
私はその手紙を伯母様に渡した。伯母様はその手紙の湿り気を吹き飛ばすかのようにカラッと笑った。
その後掃除を続ける中で、私がもし、そのいとこと同じように都会の医療現場で働いていたとして、祖母が祖父にすがるように祈ってくれるかと想像してみたら、多分それはNoだろうなと思った。
でも、それが悲しいわけでもなかった。だって、私だって、おばあちゃんのことを深く愛していたわけじゃない。
気がつかない私
以前、駅に居たときに視界の端に老人たちがいるのが分かった。でも、「老人グループだな」と思っただけで、私は気に留めなかった。その人たちは改札を抜けて、私の来た方と反対方向へ歩いて行った。
その後すぐ、母から「おばあちゃんがさっき駅で友達と待ち合わせをしてて、さっきたまたま会ったよ」と言われた。思い返してみれば祖母らしき人がいたような気もする。ていうか9割そうだったかもしれない。
私は祖母に気づかなかった。私の祖母への気持ちはそんなものだった。祖母が私に気づいたのかは分からなかった。
だから「もっと愛されてみたかった」とは到底言えないまま、今年も畳の匂いの立ち上る仏壇に手を合わせる。
花火
川の向こうでは屋台が立ち並び、道が人で溢れる。交通整理のおじさんが声を張り上げる中で花火が始まった。打ち上げは19時半から20時くらいまで。私が子供の頃はもっと長かったように思うけど、定かではない。まだ太陽の明かりを残す濃紺の空に上がる花火は美しい。
その人を深く愛していたわけでもないくせに「もっと愛されたかった」などとは傲慢で私にはとても言えない。
もしタイムリープをしたとして、過去の私に「おばあちゃんあと少しで死んじゃうよ、だから後悔しないようにもっと関わった方がいいよ」と何度言い含めても、小さな私は祖母に近づこうとはしなかっただろう。過去の私は不登校児で、周囲の人の自分を見る目がふとしたことで変わることを知って、人が怖かったから。
でもこんな風に、自分が祖母にどんな風に思われていたのかも、自分がどれくらい愛されていたのかも分からないまま推量するしかなく、強く悲しむことも怒ることもできずに祖母を思うよりは、怖くても近づいた方が良かったのかもしれない。
私が学校に行き渋っていることは知っていたと思うけれど、それで私への態度を変えたことはなかったのだから。
祖母が教えてくれたこと
「おばあちゃん、天国でどうしてるかな?」と母に聞いたら、
「こっちのことなんか気にしないでカラオケとかしてるんじゃない」と言った。歌うのが好きな人だったから確かにその通りだと思って笑った。もし、天国というものがあるとするならば、だけど。
フィニッシュを飾るナイアガラの滝が消えて花火は終わり、交通規制が解かれて少ししてから帰宅した。
そういえば、帰りの挨拶にお仏壇へ手を合わせてくるのを忘れてしまったと今頃気づいた。まあ、いいだろう。多分祖母は気にしていない。そんなことを気にするより、いいものがあるところに祖母は行ったんだから。不思議とそういう気がする。
これを書いていて、私は思ったより祖母を大切に思っていたのだと知った。「その気持ちを祖母が生きているときに表せたらよかった」とは思うけれど、もう仕方のないことだ。これからは後悔のないように生きることが大切だと、おばあちゃんはその死でもって教えてくれたのだ。
傷は癒えないし人を恐れる気持ちはまだまだなくならないけれど、後悔しなくて済むよう、これからは人と共に生きよう。
この気持ちはすぐに揺らぐだろうから、ここに忘れないように記しておく。
祖母に感謝を示して 2025年8月5日 AJ静岡 林平

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